備忘録 わが心と行動に一点の曇りなし|2018年9月
インフルエンサーとの距離感
2018年9月5日
突然だが、今日から備忘録を残そうと思う。
目標としてはできるだけ毎日だが、何日続くかは分からない。
ひょっとしたら今日一日だけで終わるかもしれないし、これから先、何十年も続くかもしれない。
自分でも分からないし、分からないからこそやってみようと思う。
最初から結果が分かっていることは、あまりワクワクしない。
特にテーマは決めていない。
ただ、その日に思ったことを書くだけ。
一日を一作の短編小説に例えるなら、その編集後記を残すようなイメージだろうか。
どうだろう、自分でもよくわからない。
小説は気に入らない部分があれば後から書き直すことができるが、人生はそうはいかない。
だから小説の編集後記を残すという表現は妥当ではないのかもしれない。
今年の4月からブログとTwitterを始めた。
正確には、再開した、と言うべきだろうか。
約20年前、1998年から4年ほどホームページを開設して、ほぼ毎日日記を書いていたことがある。
Twitterも2001年ころから2年ほど使っていたが、Facebookを始めてからはまったく使わなくなった。
このブログを始めてからは、Facebookは更新していない。
SNS疲れという言葉があるが、単純に飽きたのだと思う。
このブログもいつまで続くのか分からないが、今のところ続けようと思っている。
目的は情報発信(アウトプット)と収入源の複線化であり、その結果を評価するためには少なくとも1~2年は必要だろう。
いわゆる「3ヵ月の壁」は越えることが出来たので、無理さえしなければ大丈夫だと思う。
インフルエンサーと呼ばれる人たちがいる。
簡単に言うと、SNS等を通じて世間や他者に与える影響力が大きい人、ということのようだ。
もともとはマーケティング手法のひとつから派生した言葉で、「消費者の購買行動に大きな影響を持つ人」を指していたらしいが、ブログ利用者が急増した2007年頃から頻繁に使われる言葉になったそうだ。
定義や起源はこの際どうでもいいが、要は「良くも悪くも社会的に大きな影響力を持つ個人が、ネットを介して多くの人々にその声を発信することができる環境にある」、ということだ。
彼らの発言に対して盲目的に賛同し称賛する者を「ファン」、逆にそれを嫌悪し批判する者を「アンチ」と呼ぶらしい。
ちなみに私はどちらでもないし、あまり興味が無い。
影響力を持つとはいえ彼らはあくまで「個人」なのだから、法令に触れない範囲内であれば自由に発言することに問題はない。
彼らの発言を良いだの悪いだの騒ぎたてるのは受け手であり、その影響の大小は受け手側の反応により評価される。
そこにファンはある種のカタルシスに似た快感を覚え、アンチは大きなストレスを感じる。
ファンもアンチも多くは匿名という形で様々な情報を無差別に発信し、その反響がまた反響を呼ぶ。
そうやって彼らはまた、その影響力を強めていく。
その関係は依存に近いように思える。
正直、私にとってはどうでもいい。
今後何らかの形で直接的な接点が生まれない限り、積極的に関わることはないと思う。
少なくとも今の時点で、私は彼らのために時間を使う気にはなれない。
別に彼らを批判するつもりもないし、まして擁護する気もない。
適切な距離を取って、たまに遠くからそっと眺める程度にしておこうと思う。
努力を続けることができる、それが才能である
2018年9月26日
この備忘録を付け始めて2日目だが、既に面倒くさくなってきている自分に愕然としている。
新しく何かを始めるときはいつもそうなのだが、それでもそれなりの期間続くことのほうが多かった。
昔から面倒くさがりだったが、根がまじめ、というか単純に小心者だったので、ひとつのことを始めるとそれなりに長く続けていたんだと思う。
きっと周りから失望されたり、応援してくれている人の期待を裏切ったりするのが嫌だったのだろう。
今思い返すととてつもない時間を無駄にした気もするが、いっぽうでそれなりに生きる糧になっているような気もする。
正直、わからない。
きっと死ぬ間際になってもわからないのだと思う。
「努力を続けることができる、それが才能である」という言葉を本で読んだことがある。
どれだけの期間、努力を続けることが出来れば「才能がある」と言えるのかはわからないが、この言葉は正しいと思う。
どの分野においても努力を続けることが出来なければ、秀でた結果を残すことは難しい。
何の努力もせずに結果を残せたとすれば、それは「才能がある」ということではなく「運がよかった」ということなのだろう。
成功するためには努力を継続すること、それ以外にはない。
ここで重要なのは「努力を続ける」ことであり、単純に何かを「続ける」ことではないという点だ。
努力をするとは、「ある特定の目的のために力を尽くして励むこと」であり、目的もなくただ漫然と何かを続けてやることではない。
例えば何かのスキルを習得するために勉強する。
目標を明確にし、綿密な学習計画を立てて勉強するのと、YouTubeでアイドルの動画を見ながらとはいかないまでも、無計画に思い付きで勉強するのとでは、学習期間が同じであっても得られる結果は異なる。
「努力を続けることができる、それが才能である」という言葉はきっと正しい。
だが、それが必ずしも「成功」につながる訳ではない。
ではどうすればいいのか。
やはり、努力を続けるしかない。
それ以外に答えはないと思う。
過去と未来の自分へ
2018年9月27日
実は今日くらいには更新をサボるだろうな、と思っていた。
だが、結果としてこうやってPCに向かっている。
何となく、寝る前にやることとして習慣化してきたのかもしれない。
思い返すと、20年前はほぼ毎日何かを書いていた。
何を書いていたのかというと、自分でも驚くほど全く覚えていない。
きっと数年後に読み返す価値があるようなことは一切書いていないのだろう。
だが、当時は「楽しんで書いていた」という感覚は残っている。
だからこそ毎日続いたのだろうが、それがどういう動機からだったのかははっきりと思い出せない。
今となっては20年前の自分の気持ちなど、分かりようがない。
ただ、上手く言えないが、その頃の自分が何となく愛おしいと思えるようになった。
別に自分大好きのナルシストという訳ではないが、何かを集中してやっている最中の息子の姿を見ているような感覚と似ている気がする。
4月からブログを書いてはいるが、あまり読まれていない。
普通に考えて、当たり前のことだと思う。
どこにでもいる一般人の書いた文章を、わざわざ検索して読みに来るほど暇な人は少ない。
残念ながら私はコピーライティングが得意な訳でもないし、人が習得したいと思うような特別なスキルも持ち合わせていない。
それでは、私の書く文章は全く価値がないのだろうか。
人がブログに集まるのは単純な理由で、「そこに読みたい文章、知りたい情報があるから」にほかならない。
ネットの世界で間接的に繋がっている見ず知らずの人が、「何を求めているのか?」に考えを巡らさないと、いつまでたっても状況は変わらないのだろう。
しかし、自分と一切接点のない他人が何を求めているかなど、控えめに言っても私にはわからない。
なので、これからは「過去の自分」と「未来の自分」に向けて文章を書こうと思う。
それが自分と同じ悩みや疑問を持つ人のためになれば、それはきっと価値のある文章になるのだろう。
いつかその日が来るかと思うと、少しだけワクワクする。
ブログは納得できる時間の使い方か
2018年9月28日
いきなりだが週末はこの備忘録は休むことに決めたので、9月の更新は今日が最後になる。
特に理由はないが、土日は出来るだけ家族と会話をしたり、一緒のことをして過ごそうと思う。
今後、子供が大きくなるとどこかのタイミングで休日を親と一緒に過ごすことに息苦しさを感じる時期が来るだろう。
その時に「もっと子供と一緒に過ごしておけばよかった」と後悔するのは間違いないのだが、出来るだけその度合いを低くしたいと思う。
そんなのはただの悪あがきだと言ってしまえばそれまでだが、それほど時間というものは有限で貴重なのだ。
だから出来るだけ納得できる時間の使い方をしたい。
もうすぐ9月が終わる。
9月は何をしたかというと、特に何もしていない。
芸術家は「作品」が時間の区切りとなるのだろうが、私のような勤め人は多くの場合、「会計年度」が時間の区切りとなっている。
会計年度はさらに半期、四半期と分割され、一般的には四半期が業績評価の時間的な最小単位となる。
アメリカでは12月末で会計年度を締める企業が多く、9月の終了は第3四半期が終わったことを意味する。
9月が終わると、10月にはハロウィン、11月にはサンクスギビング、12月はクリスマスと立て続けにイベントがやってきて、気が付いたらいつの間にか1年が終わっていることに驚く。
だから何だという訳ではないが、時間が経つのはそれほど早いということだ。
9月は何もしていないと言ったが、ブログの記事は何本か書いた。
私は小説家ではないので書いた文章が「出版」されることはまずないが、ネットにアップすることで世間に向けて「発信」することはできる。
但し、発信する内容と発信の仕方が適切でなければ、当然、世間の目に触れることはない。
発信する手段があっても、私が書いた記事が読まれるかどうかは全く別の問題ということなのだ。
自分が「書きたい文章」と他者に「読んでもらえるであろう文章」は、常に一致している訳ではない。
自分が書きたい文章を他者が「面白い」と思って読んでくれればいいが、多くの場合はそうはいかず、書くこと自体を止めてしまうケースが目立つ。
それを「3ヶ月の壁」と呼ぶらしい。
別にそれが良いとか悪いとか言うつもりはないが、単純にもったいないことだと感じる。
昨日、これからは「過去の自分」と「未来の自分」に向けて文章を書こうと思う、と書いた。
それが正しいやり方なのかどうかはわからない。
ただ、記事を書くには当然それなりの時間がかかる。
それが「納得できる時間の使い方」だったのかと言われると、正直、自信がない。
それでも書くことを辞めようと思わないのは、きっと自分の中で納得しているからなのだろう。
備忘録 わが心と行動に一点の曇りなし|2018年10月
話せばわかるはもう機能していない
2018年10月1日
10月が始まった。
月の始め、つまり1日が月曜日から始まるのはなかなか珍しいように思えるのだが、実際のところはどうなのだろうか。
2018年のカレンダーを見ると、○月1日が月曜日から始まるのは1月と10月のふた月だけだった。
12ヶ月のうちの2ヶ月だけなのであれば、きっと珍しいことなのだと思う。
とは言え、そのことで休日が増えたり労働時間が減るわけでもないので、きっと誰も気にしていないだろう。
月の始まりは1日であることは明白だが、週の始まりは2パターンある。
日曜始まりと月曜始まりだ。
アメリカと日本は日曜始まりが一般的だが、ヨーロッパは月曜始まりの感覚が強いらしい。
何気ない会話の中で「今週の日曜から」と言われた時、それは既に起こっていることなのか(日曜始まり)、これから起こることなのか(月曜始まり)、前後の文脈がないと正しく理解できないこともある。
別にどちらが良いとか悪いとかを言いたいわけではないが、「コミュニケーションはある前提条件が一致していないと成立しないことがある」ということだ。
「人間、話せばわかり合える」と言う言葉は、言語を含む文化的背景や教育水準、さらには所得などの生活レベルがある程度同質の集団の中でのみ「わかり合えた概念」であり、もはや通用しない。
日本国外に住んでみると日常的に実感するが、基本的には「なかなかわかり合えないもの」として意思疎通の工夫を図らないと、コミュニケーションは成立しないケースが多い。
「そんなことわざわざ言わなくても分かるだろう」という発想は、単純に意思疎通のための工夫を「放棄」しているものであり、それではコミュニケーションは成立しない。
スリナム語しか解さない人に日本語で日本における道徳観を説いても、そこに相互理解はない。
少し古い話だが、アメリカでハロウィンパーティーに参加した日本人留学生が訪問先の家を間違え、「Freeze(動くな)」と警告されたにも関わらず「我々はパーティーに来た」と応じて立ち止まらなかったため、射殺されたこともあった。
これは極端な例だが、「人間、話せばわかり合える」という言葉は既に機能しなくなりつつある。
コミュニケーションを取る相手との、前提条件が一致しないことが多くなってきたからだ。
そのことを日本の教育者は子供たちに教えるべきだと思うが、学校でそのような教育はされていない。
教師が意思疎通の工夫をしなくてもいいよう、意図的にそうしているわけではなく、きっと教師自身がそういう教育をされてきた結果なんだろうと思う。
長年、正しいと信じていたことを覆すことはとても難しい。
特に日本の教師のように、生徒を一方的に「指導」する立場にある場合はなおさらだ。
ブログも非同期のコミュニケーションと言える。
書き手によって文章に意思疎通の工夫がなされなければ、価値のある文章にはなりえないのだと思う。
全員野球という言葉の時代錯誤
2018年10月2日
全員野球という言葉は、英語にはない。
そもそも全員野球とはどういう意味なのか。
1 正選手だけでなく、その他の野球部員全員が心を一つにして試合に臨むこと。高校野球でいう。
2 (比喩的に)関係者全員が一致団結して対処すること。「経営危機を全員野球で乗り切る」
出典:コトバンク
野球の話であれば、別にいい。
私が疑問に思うのは、なぜ、日本ではこの言葉が経営や政治の分野にまでも好んで使われるのだろうか、という点だ。
全員が一致団結して競うチームスポーツは他にもある。
しかし、なぜか野球だけが使われる。
全員サッカーで経営危機を乗り切る、この問題には全員バスケで対処する、とは言わない。
野球だけだ。
一方でベースボール発祥の地であるアメリカには、全員野球という言葉はない。
単純に「teamwork」という言葉が最も近い英単語だと思うが、別に野球に限ったものではない。
なぜ、日本の特にシニア層ではチームワークと言わずに全員野球と言うのか。
以前は今と比べて野球をやる(または野球が好きな)人が多く、「野球=チームワーク」という前提を誰しも理解(共感)できたからだと思う。
スポーツの選択肢が広がり、職業や部活動、または娯楽として野球の地位が相対的に低下している現在は、どの程度の人数がいるのだろう。
つまり、今でも「野球=チームワーク」ということを、自らの体験をもって理解できる人が、果たしてどれくらいいるのだろうか。
疑問には思うが、別に調べる気は起きない。
はっきり言ってしまえばどうでもいい。
ただ、今の若い世代で野球に関わる人以外に「全員野球」という言葉を使う人はほとんどいないはずだ。
にもかかわらず、組織を率いる立場の人間がその言葉を得意げに使っている様子は、控えめに言ってもひどく滑稽に映る。
今この瞬間を集中して生きる
2018年10月9日
前回の更新からいきなり一週間の期間が空いてしまった。
その間、何をしていたかというと、ただサボっていただけだ。
アメリカは今年、10月8日(月)がColumbus Dayにあたり、企業によっては休日になる。
ただ、連邦政府が定めるNational Holidayではないので、学校などが休みになることはない。
月曜日が休日になる場合、前週の金曜日も休みを取って「4連休」にする人は多く、今年は私もそうした。
日本とは異なり、上司や回りの反応を気にして本当は休みたいけど休日を取らない、という社員はいない。
休みを取って何をしたかというと、ユタ州にあるザイオン国立公園に行ってきた。
私の住むサンディエゴから目的地までは、途中、休憩をはさんで車で約10時間。
距離にして約500マイル(800㎞)にもなる。
10時間と聞いて最初は気が遠くなりかけたが、運転は意外に苦痛ではなかった。
きっと渋滞がほとんどないからだろう。
ザイオンは素晴らしかった。
雄大な自然の中ではどんなに背伸びをして自分を大きく見せようと、ひどく無力に感じる。
全てが小さなことに思えて、日頃の悩みが吹き飛んだように思えた。
目の前に現れた大きな岩の地層ひとつひとつが悠久の時の流れを誇示し、それに比べると人間の一生とはほんの一瞬に過ぎないものだと思い知らされる。
だからこそ、もっと時間を大切にしたいと心から感じた。
公園内にWeeping Rockという場所がある。
直訳すると「涙を流す岩」になるのだろうか。
この岩から染み出す水は、約1200年も前に降った雨が幾層にも積み重なる岩でろ過され、時空を超えて現在に届けられたものだと言う。
1200年も前と言われても、ちょっとイメージできない。
それくらいの時の流れがこの場所に横たわっているということだ。
その頃、日本は平安時代。
平安の民は、1200年後の未来にどういう思いを巡らしていたのだろうか。
興味深くはあるが、今となっては分かりようがない。
今から1200年後がどうなっているのか想像もつかないが、今この瞬間を集中して生きたいと思う。
そう思える旅行だった。
失敗を許容する社会へ
2018年10月16日
今、南米チリの首都サンティアゴに来ている。
実は今回で4回目の訪問で、目的はいずれも仕事だ。
毎回、5日間程度は滞在しているのだが、まったくと言っていいほど土地勘がない。
初回を除き、最近は毎回土地勘のある現地スタッフと一緒に行動しているため、自分で道を覚えようとしてないのが原因だ。
良い悪いは別として、マインドが仕事モードとなると無意識に最も効率的なオプションを選択する癖がついていて、ただでさえ疲れる海外出張では無駄なことは極力したがらないようになったのだと思う。
バックパッカーをしていた20代の頃は違った。
訪れた街の風景や人々の様子、その土地独特の空気や雰囲気を、ありったけの力で吸収しようと必死だった。
もっとも、旅行と仕事は目的も予算も違うので当たり前といえば当たり前のことだが、20代の自分が今の自分を見たら何て言うのかなと、ふと考えてみたりすることがある。
今思うとあの頃の自分に対して言いたいことは山ほどあるが、その逆はどうだろうか。
将来に大きな希望を抱いていた過去の自分に叱られそうで、あまり深く考えないようにしている。
「過去は振り返らないの、今が見えなくなるから」
唐突だが、この言葉が好きだ。
過去は振り返らないと言っているが、「反省はするが後悔はしない」というニュアンスが強い。
失敗を繰り返しても前に進める人というのは、きっとこういうマインドなのだろう。
過去の失敗を糧に、より良い未来の創造に向けて挑戦を続ける。
口で言うのは簡単だが、実際に行動に移すとなると容易ではない。
逆に言うと、それが出来れば頭ひとつ抜け出せる可能性がある。
しかし、日本の社会には失敗を許容する素地がない。
「失敗は成功のもと」という言葉は、失敗をしてしまった人を励ますために用いられる事が多く、そもそも「失敗はしてはいけないもの」という色が強いと感じる。
それは学校教育の根本に関わるものだと思う。
日本では「いかに失敗せずに与えられた(≒決められた)手法を用いてゴールに到達するか」を前提とした視点で教育がなされる。
失敗は「悪」であり、失敗した者はそれがいかに大きな挑戦に対してであっても、「敗北者」として肩身の狭い思いをする。
興味がないだけであっても出来ないことがあると「失敗」と見なされ、なぜか教師に叱られる。
一方、アメリカでは「トライ&エラーを繰り返しながら独力でゴールへ辿り着く術(すべ)を身に付ける」ことに重点が置かれている気がする。
失敗はひとつの過程であり、「必要」なのだ。
失敗したからと言って別に他人から叱責される訳ではなく、逆に挑戦した者として評価されることもある。
また、本人に興味がなければ教師から何かを強制されることもない。
誤解して欲しくないのだが、アメリカと比べて日本はダメだと言いたい訳ではない。
日本のやり方がその時代に適したものであればうまく機能し、絶大な効果を発揮することだろう。
かつての高度経済成長期は、まさにそのことが実現したものだったと言える。
当時は日本の手法は絶賛され、各国がこぞって日本式のモデルを研究し自国に取り入れようとした。
ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代だ。
ただし、その手法が過去の成功体験に基づくもので、現時点ではまったく機能しなくなっていたとしたら。。
想像するだけで気が重くなるが、日本の小中学校教育は未だにその路線から脱していない様に思える。
「過去は振り返らないの、今が見えなくなるから」
失敗を許容する社会でなければ、思い切った挑戦をする人など決して出てこない。
日本から優秀な人材が海外に出て行っている訳ではなく、日本にも優秀な人材はいるが、失敗を許容しない社会が大きな弊害になっているのは間違いない。
備忘録 わが心と行動に一点の曇りなし|2018年11月
自分の好きなものを好きと言うために他を貶(けな)す必要はない
2018年11月28日
元X-JAPANギタリスト、hideの名言と言われている。
私はこの言葉が好きだ。
自分の正当性を主張するための手段として、異なる意見や価値観を一切認めない人は存在する。
そしてこういうタイプの人間は、その主張に関する矛盾を指摘されるととたんに怒り出し、相手の人間性を攻撃する人が多いように感じる。
そんな人を相手にしてもプラスになるものは何もないので、実害がない限りは放っておけばいいだけだが、視界に入るとやはり気分が悪くなる。
人は人、自分は自分。
自分を相対的に相手より高い位置に置くために、相手の足を引っ張ることに力を注ぐタイプと、自分の個としての能力を高めることに集中するタイプ。
どちらのタイプを選ぶか?と聞くと後者を選ぶくせに、実際の行動では圧倒的に前者が多い。
そういうタイプの人間は他人を不必要に意識するあまり、「自分が本当に好きなものは何か」を全く分かっていないように感じる。
自分が好きなものを好きと言うために、他を貶(けな)す必要などないのだ。
備忘録 わが心と行動に一点の曇りなし|2019年1月
全てのコツは焦らないこと
2019年1月10日
注意深く観察し、焦らず冷静に対処すること。
事態が深刻になればなるほど、冷静さを欠いた言動や行動は自分を最適解から遠ざけることになる。
パニックになればなるほど、助かる可能性は低くなるのだ。
『危機感を持つ』ということと『焦る』ことは全く異なる。
前者は『現状に留まることをよしとせず、その先にある明確な目的を達成するため優先順位を付けて自発的に取り組む』ということだと思う。
危機感は『ポジティブな意味で緊迫した心理状態』を表し、一方で焦燥感は焦りやイラだちなど『ネガティブな不安に満ちた心理状態』を表す。
つまり、危機感と焦燥感はそれぞれ対極にあるべきもの。
その点を理解せず、危機感という言葉の意味を履き違えて焦燥感を煽る者とは距離を置いたほうがいい。
いずれにせよ、全てのコツは『注意深く観察し、焦らず冷静に対処すること』だと思う。
備忘録 わが心と行動に一点の曇りなし|2019年2月
中学生のアメリカ横断ヒッチハイクに思うこと
2019年2月21日
少し前に日本の中学生が単身で渡米し、ヒッチハイクでアメリカ大陸横断を試みたが途中で断念して日本へと帰った。
未成年だっため旅の途中で州の施設に保護され、親御さんが迎えに来て今はもう帰国しているとのことだが、旅の経過をSNSで発信していたため「炎上」しているようだ。
彼を応援した人達を「無責任だ」と切り捨てる人もいるが、恐らく「困っていたから助けてあげた」というレベルで、第三者から非難されるようなことではないと思う。
彼の行動を心配した人も、きっと子供を持つ親として見過ごすことができなかったのだろう。
私も自分の子供が今回の少年と同じようなことをやると言い出したら、間違いなく止める。
それほどアメリカの社会は外国人の未成年に甘くはないし、困っていたら必ず助けてもらえるような牧歌的な時代でもない。
むしろ、弱みを見せたら付け込まれることも少なくなく、この少年も深刻な事態に陥る前に帰国できてよかったと思う。
帰国してもなお「無謀、無意味、迷惑、親は何してるんだ」などと盛り上がっているようだが、あまり興味はない。
帰国した今、彼を誹謗中傷し続ける人はおそらくただの暇人だ。
ただ、一点だけ思うことがある。
なぜ、彼は単身ヒッチハイクでアメリカを横断しようと考えたのだろうか。
日本人の未成年が単身ヒッチハイクでアメリカを横断することで、たくさんの人に勇気や夢を与えることは出来ない。
キューバや中南米諸国の若者が努力の末に合法的な手段でアメリカに渡り、自国よりも自由で豊かな生活を手に入れたという話とは根本的に違う。
彼はまだ未成年であるから、仮に判断を誤ったとしてもそれは仕方がない。
親がしっかりと正してあげるべきだったと、保護者の責任を追及する声が多く出ているのだろう。
親が何を言ったところで彼が旅を断念したかどうかは今になってはどうでもいい事ではあるが、彼は「たくさんの人に勇気や夢を与える」方法として単身ヒッチハイクを選んだ。
そうだとすれば、彼の周りには「将来こうなりたい」と憧れるような大人がいなかったのではないだろうか。
そもそも私は「勇気や夢を与える」という発想があまり好きではない。
それは結果的に受け手がそう感じるものであり、こちらから「与える」という上から目線の考え方が傲慢に感じるからだ。
それはさておき、「勇気や夢を与えたい」と言う人は、実のところ自分が勇気や夢に餓えている(=与えて欲しいと思っている)ことが多い気がする。
この少年も身近に「カッコいい大人」がいれば、きっとその人から勇気や夢を感じ取ることが出来たのかも知れない。
子供達が身近に憧れる大人を見つけられないとしたら、それはとても残念なことだと思う。
備忘録 わが心と行動に一点の曇りなし|2020年5月
コロナ禍で思うこと
2020年5月8日
帰国してちょうど1年がたった。
日々の経過を指折り数えていた訳ではないが、久しぶりに文章を書いてみようと思った日と偶然重なったことは何となく嬉しい。
気分はものの捉え方ひとつで簡単に上げることが出来るのだ。
前回の更新が2019年2月のようなので1年3ヶ月の時間が空いている。
その間、何をしていたのか実はあまりよく覚えていない。
忘れたくても忘れられないことはきっと忘れてはいけないことなんだと思うが、逆に思い出そうとしても思い出せないことは無理に思い出さなくてもいいことなのかも知れない。
新型コロナウィルスが世界的に猛威をふるっている。
感染者数は世界で400万人に迫り、死亡者数も26万人を超えた。
この数字を過去のどの事例と比較すればいいのかという議論は無意味だし、いつ終息するのかは誰にも分からない。
どの国のニュースも連日その話題ばかりで見ていて気が滅入る。
先日、村上龍さんの作品「ヒュウガ・ウィルス」に出てくる言葉を思い出した。
「出現ウィルスは何かを象徴しているはずだ」
「ウィルスには悪意も善意もない、結果的に、触媒の役割を果たしているだけだ」
新型コロナウィルスは何を象徴しているのだろう。
医療と経済の双方において相当のダメージを与え、一般の生活様式も短期間のうちに一変させた。
とても興味深いテーマだが、この事象にそれなりの解釈を与えるのはもっと先になる。
ウィルス自体に悪意や善意はないことは確かだが、進化の過程に必要な「触媒」と割り切るにはもう少し時間が必要なんだと思う。
~はアメリカにはない!っていうやつ、流行ってるみたいだけど、普通にアメリカにもあるよ。
それは知りませんでした!
そうであれば私が聞いたことないだけですね。
ありがとうございます。